連 載
【流言流行への一撃】西部 邁
もう一度 戦争やって 負けなきゃね――総選挙を前に思うこと
福田恆存が最晩年に「もう一度戦争をやってもう一度負けなければ、この国民はどうにもならない」としばしば口にしていた。衆院選を前にしてそのことをつくづく思い出す。説明がほとんどなかったので、その言をどう解釈するかには相当の自由度がある。私の解釈をいうと、あの大戦争の始め方も進め方も、そして負け方も占領のされ方も、あまりにも「目前の状況にたいするその場かぎりの適応」に傾きすぎていたことへの自省が、戦後日本人にあって少なすぎる、ということではなかったのか。
そして今、一例を挙げれば、構造改革路線で「自己責任」を呼び立てた挙げ句に、格差の広がりなどで日本社会が不安定になると、今度は、「命よりもコンクリート(公共事業)が大事なのか」と中学生のホームルームでの料白のようなことを口走る御仁が我らの首相になろうとしている。状況適応による国家の右往左往、そうした政策のジグザグ運転で、日本国家は転覆のさなかにある。その国家転覆を確認しつつ促進するのが今次の衆院選だ、ということであろう。
福沢諭吉は「一身独立して一国独立す」といった。この料白(だけ)を真に受けて、またそれを戦後日本のアメリカニズムへの心酔と結合させて、「自己責任」を強調する手合いがたくさんいた。構造改革の競争主義を築いたのは、この一身独立のアメリカ流テーゼだといって過言ではない。
しかし、諭吉は「国民の文明」ということも強調していたのである。さらに、西洋に迎合する「改革者流、開化流、心酔者流」を軽蔑したのも諭吉であった。この国民性への篤い配慮のことも勘定に入れると、諭吉が強調したのは、「日本の国柄という国民精神の地盤の上に、日本人が、一人ひとり、独特のやり方で自立する」ことであったとわかる。そのようにして国民各位が国柄を引き受けるならば、一国独立もおのずと達成される。要するに、諭吉の一身独立はけっして個人主義に発するものではなかった、ということである。
この意味で一身独立した者は、時流に乗って世論迎合に走るというようなことはしない。大衆の世論は、戦後日本のマスコミ論調を振り返ればすぐわかるように、国民の歴史的常識としてのナショナル・アイデンティティ(国柄)から離れること、あまりにも大きいからである。思えば、大東亜戦争の初期、世論の好戦的な気分の高まりは並大抵のものではなかった。その高まりは、当時のマスコミによって煽動されたものであった。その軍国主義や天皇主義といわれても致し方ない熱狂ぶりは、けっして日本の国柄に添うものではなかった。福田恆存が「もう一度戦争をやって、もう一度負けてみるしかない」といったのは、この「国柄の上における一身独立」の必要が、64年前の敗戦によっても、確認されなかったことをさしていたのではないか。
大東亜戦争への一方的な反省や謝罪は、ただ、国柄の忘却や破壊や放棄を促しただけであった。日本国憲法に記されている国民の根本規範はひたすらアメリカの国柄に範をとるものである。日本の国柄のすべてはその第1章の「天皇条項」(の前半つまり「国民統合の象徴」という部分)にのみ記されている。日本の国柄をすべて天皇に委ねて、国民のほうは自由民主に遊ぶというのは、戦争の全責任を天皇にあずけようとする無責任と相通じるものがある。いや、戦後日本についてのみいえば、「国民統合」の価値とは、アメリカ流の「自由民主」のことである、という解釈すら成り立つのである。
国民が、各自の立場で、おのれらの心身の奥底に横たわる国柄を自覚する必要がある。あの敗戦(とくにアメリカの温情を装う占領政策)は、不徹底な代物であったのかもしれない。もっと酷い辛酸をなめれば、さすが暢気な日本人も、日本人はどうあがいても日本人でしかないこと、それゆえ日本の国柄の上に自立するほかないことを、心底から自覚できたかもしれない。福田恆存が「もう一度の敗戦」を要求したのはそのことだと思われる。
国柄をしっかりと踏みしめるには、国民の感情も論理も包括的で安定したものでなければならない。近時の政論にみられる類の、浅い感情と狭い論理では、国柄を実感することも認識することもできず、マスメディアの煽動する世論のムードに呑み込まれるしかない。(後略)