政治家の言動の一部だけが誇大に喧伝され、それをめぐる大騒ぎが一日一夜にして忘却の彼方へと消えていく。それがメディアにおける政治記事および政治番組というものである。そうでなければ、「新規なる単純」を好む世論において、記事・番組の「刺激ゆえの流通」が保たれかねないからだ。メディア帝国は、大昔にローマ帝国がそうであったように、「低俗化してゆく言葉」によって、みずからの文化的権威を腐食させていく。そんな次第なので、この2月半ばに、変人との風評の高かった小泉純一郎なる人物が吐いた「笑っちゃうくらい呆れる」との一言から、政局動乱の最終局面が始まったことを覚えているのは、私のような「笑っちゃうくらい呆れる」変人くらいのものではないのか。
四分社化された郵政会社が「サービスと営業成績」で悪化の一途を辿っている。そうと判明すれば、「3年後に見直す」との条件がその改革に付されていたことでもあるので、麻生首相がその見直しについて言及するのは、むしろ当たり前のことだ。そして国会の質疑応答のなかで、「自分の本心は郵政民営化にむしろ反対であった。しかし、内閣にいたということもあって政府・与党の組織的決定に従うことにした」と発言したのも、どちらかといえば、その正直・率直を褒められてよい種類のものだ。
というより、麻生発言は政府与党の大多数における本心を吐露したものにすぎない。「馬鹿が戦車でやってくる」どころか、「阿呆がイナゴの大群となって国民の良識を食い荒らす」といった体の平成改革騒ぎには、政治・行政の権力の座からひとまず去ろうと決意しないかぎり、抗すること能わずと構えるしかなかった。それが議員・役人の本音であった。
私のような政治権力と縁のない者は、その騒ぎの愚劣さについて、発表する場があるかぎり、臆することなく書き、そして喋ることができた。捲土重来を期して、その騒ぎに「笑っちゃうくらい呆れる」といってのける議員・役人がもう少し多くいてくれたらと私は願っていた。しかし、それは私が政治行政の局外者だからいえることで、彼らが「世論ほど怖いものはない」と怯えるのもまたやむをえないことである。そう諦めるくらいの常識は私にだってあるのである。
私の気持ちなんかはどうでもよいとして、「世論も丸っきりの阿呆ではない」と認めなければなるまい。というのも、「改革」の(弊害どころか)「キ印」ぶりについて、人々は強かれ弱かれ気づいてきたからである。それは、あまりにも遅きに失して、1990年代の「失われた10年」はもう戻らないのは確かだ。それはこの列島において、「改革によって 日本的なるもの が喪失させられ、 アメリカ的なるもの がばらまかれた10年」なのであった。そのことに、列島人の多くが、陰に陽に、気づきはじめている。
オバマ大統領が、「日本の轍を踏まぬように」、つまり「 失われた十年 をアメリカが踏まぬように」、と就任演説で訴えたのは、それこそフシュウ(腐臭)放つ言い種だ。日本における「失われた十年」の真相は、「アメリカ流の市場主義にうつつを抜かした」ということである。そのアメリカ流への自己不信がほかならぬアメリカで広まったために、オバマ登場と相成ったのである。
「改革」といい「変革」といい、それ自体は「現状の変更」ということであって、その変更が東西南北のどの方向にどんな速度で進むのか、を何も意味しない。改革の内容のことに少しでも関心があるなら、オバマ氏は「麻生首相と手を携えてアメリカ流から脱け出そう」と演説すべきだったのである。
こうした簡単な事柄すら我が国では確認されていない。だから、郵政改革の見直しをめぐって、「麻生は小泉の虎の尾を踏んだ、郵政改革は小泉の人生を賭した企てであったのに」などというくだらぬ論評が、新聞・TVに出回っているのである。はっきりいわせてもらう、小泉改革とやらは「汚い野良猫の尻尾」にすぎないし、そんな尻尾を偉そうに振って歩くような「生」は、「人の生」かどうか疑われて当然といわなければならない。
世人が内心では自覚しつつあるこの真実がなぜメディアにおいて公表されないのか。理由ははっきりしている。メディアの場に臆面もなく顔なり筆なりを出し続けている手合たちは、つい昨日まで、「改革音頭」に煽られたりそれを煽ったりしながら、「エエジャナイカ、エエジャナイカ」と踊っていた。つまり、急にはその踊りを止められないので、小泉某を虎と見立て、その改革を立派な尾とみなすしか手がないのである。(後略)