記事(一部抜粋):2009年3月掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部邁

セミブロック化の時代――日本丸はどこに錨を下ろすか

 小生がかねてより主張していることだが、貿易における保護主義は、もちろん一定の限度で、許容さるべきである。つまり、高率の輸入関税や輸入数量の直接規制が、国内産業の保護のために必要な場合もあるということである。
 経済学では、インファント・インダストリー(幼稚産業)を保護・育成したほうが、国益の長期勘定として有効であることが証明されている。同じ理屈で、衰退(および弱体)産業の保護・復興が国益に叶うということがありうる。卑近な例でいうと、日本の農業が保護されてきたのは(国際競争市場での)非効率産業の保護・保全が必要という見地からである。ここ20年ばかり猛威をふるってきた貿易市場のグローバリズム、つまり貿易における規制撤廃の動きは頓挫せざるをえないのだ。
 ロシア大統領メドヴェージェフが「輸入自動車にたいする関税を30%にする」と発表した。その政策は、日本の中古車の輸入とそれに対する加工で食べてきたウラジオストックのような町にとっては、大打撃である。しかし、ロシア国内における自動車産業(および鉄鋼をはじめとする自動車関連産業)にとっては、高率輸入関税の処置が是が非でも必要なのであろう。失業の増大を抑えるという国家全体の目的からしても、この保護主義への動きは起こるべくして起こったというほかない。
 アメリカも「公共事業用の鉄鋼は国内産を使うべし」という法案を、あれこれ弁解しつつも提出した。クリントン時代に、日本の政府需要における(外国製品への)閉鎖性をあれほど激しく批判していたのに、君子豹変の見本のごとくに、保護主義が国益にとって有効なのだとアメリカは公言したのである。これも、雇用問題は国家の一大事とみる時代趨勢の必然といえる。
 ロシアやアメリカという大国に高品質の商品を輸出している国々は、こうした保護主義の台頭を酷評している。しかし、日本や欧州の農業がその典型であるように、貿易規制は、国家体制の「安全と生存」のために不可欠の手立てである。そのことは各国が承知している。だから、貿易における市場原理主義が通用してきたことのほうが奇異なのであった、とそろそろ認めてかからねばなるまい。
 保護「主義」というのは過剰な言い方であるかもしれない。小生のいいたいのは、市場は「競争と保護」という二次元空間のなかにある、という一事である。また、その空間において競争(という横軸)に近づくか、それとも保護(という縦軸)に傾くかは、各国の国柄による。国柄といって広すぎれば、産業組織の(歴史的な)国民性による、ということである。
 その国民性の隔たりがあまりにも大きければ、それは貿易摩擦を激越なものにし、それは双方の国益にとって有害であろう。したがって「双方の歩み寄り」、つまり競争性の強すぎる国は保護色を強め、保護色の強すぎる国は競争性を強めるという国際協調が、必要となる。その協調において最大の障害となるのが、マーケット・ファンダメンタリズム(市場原理主義)である。正確には、弱肉強食のための自由競争というドクトリン(教条)を信じるドクトリネアリズム(教条主義)、それが市場そのものを、ひいては国家全体を破壊する。それへの反動として、市場教条主義の殿堂ともいうべきアメリカすらが、その教条にたいする背教の徒とならんとしている。
 かつてケインズが「狂人の理念が国家の政策を誤導する」危険について警鐘を鳴らした。市場教条主義は狂人の理念にすぎない。世界はその狂想と狂騒から抜け出しつつある。その脱出の必要について今も鈍感なままでいるのは、ほかならぬこの日本人である。この迷妄から覚醒させてくれるという意味で、ロシアやアメリカの「反動」は注目に値する。(後略)

 

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