記事(一部抜粋):2009年2月掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部邁

「民主的独裁」しか道はないのか

「民主集中制」という現代共産主義の用語がある。つまり、何段階かにわたって民主的選挙をやっていくと、代表者が次第に少なくなって、最後に最高指導者という名の独裁者が残る、という仕組みのことである。そういえば、コミッティというのは「任せられる」ということであり、委員会というのも「委(ちい)さな数の集まり」ということをさす。少数者が多数者を操作するというのは、民主的政治のことも含めて、あらゆる政治の避け難い道なのである。
 そのことをわきまえずに、民主主義の看板だけをみて、「多数者の世論に従え」などと触れ回るマスメディアのせいで、民主政治は政治であることをやめつつある。それはこの列島における政治の惨状を眺めればすぐわかることだ。
 ヒットラーとそのフューラー制(独裁的指導体制)を選びとったのはドイツの民衆(によるレフェンダリズムつまり国民投票)である。毛沢東の独裁制も、紅衛兵という巨大(かつ幼稚)な群衆によって選択された。古代ローマのカエサル(皇帝)制以来、「民衆の喝采のなかから独裁者が誕生する」というのが歴史の鉄則だといってよいであろう。
 現代についていえば、ロシアのプーチン独裁体制が、ペレストロイカによる異常な混乱のなかから、またその混乱におけるロシア民衆の異常な危機感のなかから、生まれたものである。
 アメリカや日本におけるポピュラリズム(人気主義)は、疑似独裁にほかならない。それを劇場型政治とよぶのはふしだらな言葉づかいというものだ。政策の内容つまり政治演劇の脚本について何の関心もないいわゆるワン・フレーズ・ポリティックスはもはや政治とはいえない。脚本なき代物を演劇とよぶのも演劇にたいする侮辱にすぎない。人気政治は、雰囲気という人間精神の最も空疎な状況が国家をすっぽりと包み込んだ、という事態のことをさす。
 もちろん、現代では、人気の持続力はまことに小さい。アメリカのオバマ大統領について予測すると、「チェンジとホープとアメリカ」の3語しか口にしないような大統領は、じきに人気の座から滑り落ちるであろう。「雰囲気の支配」はしょせん短命なのである。いや、その支配は、次の餌食を求めて、一時の人気を寄せる対象がどこかにいないかと、うろうろと探し求めるのである。
 つまり人気主義が「疑似」の独裁であるのは、大事なのは人気の(内容ではなく)形式である、とされている点だ。虚無に沈んだり焦燥に舞ったりしている民衆にとって大事なのは、人気者をみつけてきて「騒擾」を起こすことのほうであって、人気者の正体を見究めることではないのである。
 いうまでもないことだが、人気の内容と形式はまったく無関係ではありえない。何となく気っ風がよさそうとか、どことなくハンサムだとかいった、たわいのない切っ掛けがあれば、状況の然らしむるところとして、人気という集団現象は(いったん火がつくと)燎原の火のように広がっていくのである。
 人気主義によって持続させられるのは「世論の支持率」という「統計容器」にとどまる。それさえ持続させることができるなら、その容器に盛られる(人材という名の)料理は、はっきりいって、何でもよいのである。盛ることのできない料理があるとしたら、それは世論に歯向かう人材のみである。ところが政治が内容として良きものになるためには、政治家に世論と喧嘩してみせる度量と、その喧嘩相手を言葉巧みに説き伏せる才覚とがなければならない。
 真正の独裁者にはその度量・才覚がある。かつてプラトンは、その種の指導者をフィロソファー・ルーラー(哲学的統治者)とよんだ。現代におけるようなグレート・ソサイアティ(大規模社会)では、哲学的統治者の登場は難しいと承知しつつも、その大なる必要についてくらいは、識者たる者、よくわきまえておかなければならない。
 この春かどうか、「政局」にほとんど関心のない私には断言できないが、衆院総選挙がやがてやってくる。世間でそういわれている。一説によれば、選挙でカネを動かせば、メディア産業が活気づくので、解散間近しとの噂を(不況であえぐ)メディアがまきちらかしているのだという。いずれにせよ、世論調査でみるかぎり、自民党の敗北と民主党の勝利は確実ということになっている。何という下品にして錯乱せる世論か、と今さらながら舌打ちしたくなるではないか。
 欧米諸国も似たようなものだが、アイディア(理念)もイデオロギー(観念体系)もない現代にあっては、与党と野党の政策的隔たりはまことに少ない。つまり、選挙結果がどうなろうとも、「当座、やりやすいことをやる」ということ以外には政府は何もなさない、ということになっている。
 そうなってしまう最大の原因は、現代人が未来というものに確たる展望を持てなくなった、それで黒く淀んだ虚無的な気分が文明を覆っている、という点にあるのであろう。(後略)

 

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