記事(一部抜粋):2008年7月掲載

連 載

【流減流行への一撃】西部邁

家庭と地域――社会保障の基礎 

「老人漂流」などと題されて、今の医療改革が貧困層に過大な負担をかけることへの批判が高まっている。「後期高齢者に死ねというのか」といった抗議の声までもが挙げられている始末だ。
 こうした状況にあっては、「もうじき死ぬはずの年齢層を後期高齢者と呼ぶのだ」「後期高齢者は、自らの誇りにかけて、おのれの死に方について今から準備しておくべきだ」などと客観的な発言をしてみても始まらぬ。それどころかそんな発言は人非人の所業とみなされてしまう。
 と承知しつつも、かかる結果に至った「平成改革」を主導してきた年齢層は、今、後期高齢者になりつつある人々だ、ということくらいは確認しておきたい。また、彼らの子供、孫、曾孫は、これから金融危機、食糧危機、エネルギー危機、環境危機によってかつてない苦難に落とし入れられるにきまっているのだから、後期高齢者よ、少しは後世のことに思いを致せ、とつけ加えてもおきたい。
 もちろん、現下の医療改革が杜撰をきわめていることはあらためて指摘するまでもない。だが、なぜこんな顛末になったのかを冷静に把握しておかなければ、適正な社会保障体制がこの列島に敷かれるべくもない。これまで繰り返されてきた役人バッシングに、屋上屋を架してみたとて詮ない話だ。
 この新世紀が始まった頃には世界一の水準にあった日本の(医療制度をはじめとする)社会保障体制を破壊したのは、ほかでもない「小泉改革」であった。それに拍手喝采したのは日本人自身である、というところから議論を起こさなければならない。
 財政均衡主義に立つ財務省は、少子高齢化を見通しつつ、2200億円の社会医療費節減の方針を打ち出した。郵政選挙では圧勝という(訳のわからぬ)成り行きに乗じて、小泉(前々)内閣がその方針を強行した。そしてその方針を正当化する論拠として、一つに「過剰医療」の是正が謳われ、二つに「自己負担」の原則に立って「診療報酬の改正」が(後期高齢者の過剰入院を制限する方向で)実行された。
 重要なのは、そうした医療改革の根本に、「老人の介護・治療を『家庭と地域』が分け持つべし」という厚労省の社会観が据えおかれていたということである。はっきりいわせてもらうが、「家庭と地域」という共同体を老人医療の基礎とする、という発想それ自体には汲みとるべきものが多い。病気や老衰に見舞われた老人たちを病院に放り込んで事足れりとする、つまり病院を姥捨て場とする、という戦後の風習が社会医療費を顕著に増大させてきた。その風習に改変を迫った厚労省の態度は評価してよいのである。
 しかし、「家庭と地域」という共同体は一朝一夕に再興されるものではない。現に家庭崩壊と地域瓦解が音立てて進行中なのであってみれば、それらの共同体を再生させるには、あと何十年もの(官民協調の上での)努力が必要だとみなさなければならない。そうした共同体復興のための長期計画の一片もないままに、老人たちを拙速に病院から追い払おうとした小泉改革は、近代史において稀なほどの、敬老精神を蹂躙する蛮行なのであった。
 それどころか、小泉改革は日本社会のアメリカ化を完成の域に至らせようとしていた。それは、ただちに、「個人の自由」と「自由競争の効率」の名の下に家庭崩壊と地域瓦解を促進する企てとなる。実際に、そうした共同体の崩壊が、小泉時代に、全国の津々浦々に及んだのである。
 この蛮行を阻止しようとすれば、日本社会は、今暫し、社会医療費の負担に堪えなければならない。そのためには、赤字公債のこれ以上の発行は無理というのなら、消費税率を10%、15%へと引き上げるの策に出るほかない。しかし、この医療改革を失政と糾弾する民主党にしてすらが「消費増税は、当分、致しません」と選挙人気を目当てにして甘言を弄している。(後略)

 

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