インターネットの「出会い系サイト(場所)」とやらで、硫化水素自殺の勧誘が行われているという。しかし、そんなことは今では陳腐な出来事にすぎない。「ネチズンの時代」ともてはやされてきたこの高度情報社会、つまりネット情報がとどまることなく氾濫する現代社会において、犯罪サイトや不道徳サイトが広がっているのは周知の事実だ。それに詐欺すれすれの証券取引サイトも加えれば、ネチズン(ネット上に棲まう市民)が「反秩序」の性向をもつ精神的「障害」にかかっていることは疑うべくもない。
そこで、かかる「有害サイト」を規制すべく、与党のなかに(高市早苗議員を中心にして)議員立法の動きがあるという。ところが、この動きに素早く反発して、野党はもちろんのこと与党のなかですら、「言論の自由を抑圧するな」とか「業界の自主規制に任せよ」といった声が高まっている。「罪」を防止するのは「罪人」の自己責任というに等しいこれらの反発をみていると、「自由の履き違え」もここまでくると、一つの立派な罪だといいたくなる。
たしかに、「罪」には宗教的なスィン、法律的なクライム、そして文化的なイムモラリティの別がある。最後の「不道徳」については、一つに、それを判別するための価値基準を明示するのが難しく、二つに、不道徳をひそかに楽しまぬ人間などは稀なのであるから、不道徳にたいする政府規制には重々の配慮が必要である。そのことは認めてもよい。しかし、道徳という言葉がまだ完全な死語になっていない以上、道徳が何を意味するかについて、人々のあいだに大まかな共通見解があるに違いない。また、不道徳に愉悦を覚えるのが人間の本性なのだとしても、規制の網の目を巧みに潜り抜けてこその愉悦ではないか。
どんな政府規制であってもよいとは言わないが、罪を制止したり、それに制裁を加えることそれ自体に反発を覚えるというのは、愚論もいいところだ。それは、「言論の自由」という耳に胼胝ができるほどに退屈な決まり文句を復唱していれば、それ以上の思考は要求されない、という怠惰な精神の然らしむるところにすぎない。
「自由」とは「自分の振る舞いには正当な理由がある」と思われるときにのみ主張しうる権利にすぎない。宗教的・法律的・文化的な「罪」を犯そうとしている自分は、公言するに値する理由を持っているのだ、と言い張れる人間など、いるはずがない。いたとしても、よほどに風変わりな芸術家や思想家にとどまるであろう。どだい、権利というのも、近代における一つの退屈な魔語にすぎないのである。
どんな権利も、その根底を(福澤諭吉の言った)「権理」によって支えられていなければならない。そして権理とは「道理によって正当化されるという理由で、自由にやってかまわない行為」のことをさす。問題は道理が、いいかえれば道徳が、どこからやってくるかということである。
自分は完璧な価値観の持ち主だと傲岸に構える狂人でないかぎり、誰しも、「道理は歴史からやってくる」と認めざるをえない。この常識を踏まえていれば、ネット犯罪を抑止・禁止することに反対できるわけがない。為すべきことは、その抑止・禁止の内容を具体的にどのようなものにするかということだけのはずである。そのように考える人間が国会にあってすら少数派だというのだから、この国土には不道徳列島の名称がふさわしいのではないか。
有害サイトにたいする法律的規制に反対する者たちは、例によって、「業界の自主規制」に委ねるのがよいと言い張っている。要するに、「インターネット接続業者に有害情報の閲覧とその防止措置に努力するよう要請する」にとどめようというのである。「接続業者」が有害情報の散布を商売にする可能性には考慮しなくてよいという理屈がどこからやってくるのか、莫迦も休みやすみ言えといいたくなるではないか。
このように言うと、判で押したように、「司法機関が過剰な統制をかけてこないという保証があるのか」という反論が返ってくる。はっきり言わせてもらうが、民間業者が道徳において節度を守る保証も、政府が権力において節制を守る保証もありはしないのである。保証がなければ何もしたくないというなら、そもそも、インターネットをこの世に存在させなければよかったのだ。大事なのは、「民間と政府」のあいだの相互関係と相互差異をみきわめておくことである。
福澤諭吉は「政府は国民の公心の代表なり」といった。まことにその通りで、それこそが良き民衆政治の本質である。民間と政府をまずもって対立軸においてとらえるのは、左翼政治の鉄則であるが、このアイアン・ローが、今や、国会議員のオツムをまで縛り上げているわけだ。(後略)