連 載
【流減流行への一撃】西部邁
対中外交を狂わせる分離主義 政治、経済、そしてスポーツのかかわり
日本の対中貿易量は、「中」を台湾、香港、シンガポールを含めたいわゆるグレート・チャイナ(大中華圏)とすると、対米のそれを超えた。その成り行きのなかで、日本は、またその宗主国ともいうべきアメリカも、中華人民共和国へのアピーズメント(宥和)の姿勢を顕著にしている。そうであればこそ、中国のチベット占領がついにラサ暴動の形で反撃を受けているというのに、日米両国は「在チベット邦人の保護」を中国政府に申し入れるにとどめている。中国がわも「チベット問題は内政に属する、内政干渉は排撃する」と居丈高である。
しかし、内政と外交、政治と経済、政治とスポーツ(北京オリンピック)は、それぞれ区別さるべきではあるが、決して分離さるべきではない。さるTVスポーツ評論家が、欧州に「オリンピック開会式ボイコット」の動きがあるのをみて、「人権というキレイゴトが罷り通っている」と嘆いていた。ほとんど人非人の発言といわなければならない。この五十余年で150万人のチベッタンが殺戮されている事態に抗議するのをキレイゴトとよぶ神経は、完全に狂っている。
外交の少なくとも半分は、相手国のやり方(内政)に文句をつけることだ。そうした文句を互いにつけ合うことの結果、妥協の産物として、条約や協定が結ばれる。「内政と外交は分離できない」というのが真実であるからには、国家の「主権」つまり「無制限の権利」などあろうはずがない。禁じられるべきは「内政への過剰干渉」であるにすぎきない。そして、それが過剰であるかどうかの判断は、外交上の(国際ルールの解釈・運用をめぐる)力関係によって定まるとするしかない。
同じようにして、政経分離の原則などはまやかしもいいところだ。経済活動は人間(およびその組織)が行うものであり、それゆえ経済活動は慣習法と制定法に依存する。慣習を解釈・運用するのも法律を作成・廃棄するのも政治の営みである。だから政治と経済は分離できない。ついでにいっておくと、経済と文化もまた相互依存の関係にあるのである。それらを分離することができるのは、社会がスタティック(変化のない静穏な状態)の場合のみだ。経済がダイナミックに変化する場合には、国内外のルール(慣習法と制定法)の形成や解釈や適用にかかわって、政治・経済・文化の全要因が作用してくるのである。
中国の政治と文化は中国共産党の一党独裁によって方向づけられている。その独裁制の影響は、当然、経済にも及んでいる。つまり工場の立地や勤労規制そして会社の税金や賄賂において、独裁制が機能している。日本を含む自由主義諸国のまやかしとは、民主主義賛成・独裁主義反対の黄色い声をやかましく挙げておきながら、カネが儲かりそうだとなると、独裁国家との経済取引に精を出すこと。かくして独裁制の延命や強化の手助けをするということになる。
独裁国家と取引するなといいたいのではない。それどころか、今元気に国家意志を表明し国民活力を高めているのは、中国やロシアをはじめとする独裁もしくは準独裁の国家群である。それゆえ、民主主義社会における国家政策の混乱と国民文化の衰弱のことを思うと、独裁制にも見所があるのではないか、自由主義国で流行している分権主義には大きな落とし穴があるのではないか、といいたくなるくらいのものである。私のいいたいのは、健全な民主制はその秩序を「国民の歴史」に根差すものとしての「国柄」に求めざるをえないということだ。自国の国柄をわきまえた「国民とその政府」(国家)は、独裁国家との付き合いにおのずからなる節度をもって当たるのが筋、といいたいのである。その節度を示す絶好のチャンス、それがチベット問題で中国をいかに撃射するかということではないのか。だが、我が国家には、稀に例外者はいるだろうものの、対中の貿易・金融の邪魔になる、また北京オリンピックでの享楽に水を差すとの理由で、チベッタンへの援助はあたうかぎり少ない。これをしも我らの国柄とよぶのは、亡国の民に特有の妄言と断じざるをえない。
(後略)