(前略)
この40余年で、我が国の食糧自給率は80%から40%へと半減した。そのことへの警鐘が時折に鳴らされているとはいえ、国民も政府も、自給率の改善に本気で取り組もうとはしていない。世界各国が食糧自給の長期戦略に、それらが成功裏に進む保証はどこにもないとはいえ、ともかく血眼で取り組んでいる。それなのに我が国だけは、まるでその日暮らしの蝉のように、ほんの当座、「グルメ料理」とやらに舌鼓を打ったり、レトルト商品とやらを喉に流し込んでいればそれで十分、というふうに能天気を決め込んでいる。
なぜ、自分らの「子孫」の生活を本気で心配しないのか。子孫のことを口先だけで心配して、本音としては、自分の生と死になぜかくも拘泥するのか。それが日本人の国民性だなどとはとても考えられない。それどころか、かつての日本の(家族制度を含めた)集団運営法は「過去世代の知恵を現在世代が受け継ぎ、それを将来世代に継承させる」ことを旨としていた。そうした世代間の連続性が(子孫の食糧問題を直視するのを止めるほどに)断ち切られたについては、何らか特殊な事情が、この戦後の60年余、作用していたに違いないのである。
第1に、たった1度の敗戦で、この列島ではみずからのネーションフッド(国柄)への自己不信がかつてない高みに達してしまった。「国家」とは「国民とその政府」のことを意味するにすぎない。それなのに、国家という言葉すらを忌み嫌う、それが戦後の習わしになっている。「国民」が「国の歴史」を背負う人々のことを意味する以上、国家こそは世代間の連続性を促進する制度である。それが軽んじられれば、子孫の食糧問題に真率な関心が向けられるわけもない。
第2に、リフォーム・トゥ・コンサーヴ(伝統を保守するための現状の改革)ではなく、チェンジ・トゥ・チェンド・イットセルフ(変化それ自体のための変化)が尊ばれる「革新の時代」にあっては、未来はデンジャーもしくはクライシス(危機)に満ちたものになる。ちなみにリスク(危機)というのは確率的な予測の可能な不確実性のことであるが、そんな都合のよいリスクなど、(「実験」の叶わぬものとしての)歴史にあっては、社会のほんの一部分にしか生じない。かつて経験したことのない変化が休みなく生じる革新の時代を覆うのは危機であって危険ではない。
そんな危機の時代にあっては、国民によって記憶されるのは近過去のみであり、それゆえ予測されるのも近未来だけである。これを文明のマイオピア(近視症)という。マイオピックな国民が子孫の食糧にまで配慮を及ばさないのは至極当たり前のこととみなければならない。
農業復興のためのヴォランティア(「自発」の意志に発する「義勇」)が開始されないのは、我が列島人が、遠過去と遠未来を見通すという意味での、長期的なパースペクティブ(展望)を失ったからだ。「スペク」とは「見ること」であるから、パースペクトとは「あたりを見ること」である。しかしこの列島に大量に発生しているのは、スペシャリスト(専門人)だ。(後略)