安倍晋三なる我らの若き首相の本心は、その自覚の度合いは定かでないとしても、平成改革(とりわけ小泉改革)の弊害を除去しようということではなかったのか。なぜといって、その(憲法や教育法の改正姿勢にみられる)「国柄の回復」や(「ふるさと納税」などの施策にみられる)「地域の復興」を図らんとする態度は、「国柄の破壊」と「地域の壊滅」が平成改革の産物にほかならないことを、多少とも意識したうえで打ち出されたに違いないからである。
しかし安倍首相は、1つに「小泉政権を継承する」という立場にいたこと、2つに「改革を批判するのは世論におけるタブーである」ととらえていたことのために、「平成改革に大なる軌道修正を」と明言することができなかった。これが過ぐる参院選における自民大敗の真因である。それは、同時に、平成日本人が歓呼の声をもって迎えた「改革」の数々が、ついに自己崩壊に立ち至ったことのまぎれもない証左なのだ、といってさしつかえない。平成改革のイデオロギーは、今さら指摘するまでもなく、「日本列島のアメリカ化」を完成させるという点にある。だから「改革」なるものは、片仮名英語として「カイカク」と表記されなければならない。そのカイカクに列島人は、ようやくにして、疑義を覚えはじめた。その疑義が、いわゆる「格差社会の到来」にたいする反発となって現れている。
富裕階層と貧困階層のあいだ、大企業と中小企業のあいだ、輸出産業と国内産業のあいだ、都市部と田園部のあいだ、大都市と中小都市のあいだ、そして列島の中央と地方のあいだそれぞれに、国民が常識として認める格差をはるかに超えた「過剰格差」(つまり「差別」)が生じている。それへの不平不満が列島人の心理にくすぶり、それが今や燃え盛らんとしている。この状況に対応する必要を最も明敏に感じていた政治家は安倍首相であったのかもしれないが、それを政治的スローガンとして掲げる勇気も準備も、自民党とその総裁には、足りなかった。
「年金」や「政治資金」にかんする管理問題は、安倍内閣の責任ではなく、平成における歴代内閣のツケが溜まったということにすぎない。しかも安倍内閣は、それらの問題への解決を引き受けようと構えているのであるから、選挙民の与党への不平不満は、別の問題にたいして差し向けられていたとみるほかない。別の問題とはほかならぬ「カイカクの弊害」ということであり、その弊害を集約的に表すのが過剰格差ということなのである。
いうまでもないことだが、この過剰格差を批判する資格は(民主党をはじめとする)野党なんかにはありはしない。というのも、カイカクを呼号し扇動してきたのは、今の民主党につながる政治勢力のほうであったのだ。その代表者が小澤民主党代表であって、彼は「甘えた国民よ、生活は自己責任でやれ。大きすぎる政府よ、国民生活に干渉するな」と呼び立てていた張本人である。その人物が、今では「生活が第一」との看板を掲げて人気を博している。朝令暮改の見本といえようが、国民の世論そのものがそうした無責任に沈み込んでいるのだから、オポジション・パーティ(「反対党」つまり野党)という無責任であってかまわない政治勢力としては、朝令暮改を君子豹変と言い繕うのは当然の成り行きなのだ。
小泉継承の位置にある安倍氏の責任感とは、「カイカクの旗を降ろさずに、カイカクの弊害を防ぐ」ように努めるというきわめて矛盾に満ちた道を進むことであった。そんな難路を容易に進めるわけがない。安倍氏は、小泉継承において、善良すぎたのだ。彼の掲げるべきであったのは、「リフォーム・トゥ・コンサーヴ」(保守するための改革)の標語ではなかったのか。つまり、「弊害多きカイカクに終止符を打つ」と宣し、国柄と地域を「保守するための」、アメリカ化に身をさらしつづけてきた戦後六十年余に反逆する「改革」、それを自分が率先してみせることだ。そうしていたら、安倍氏の地位は安泰であったに違いない。この首相は、政権の連続性にたいする責任感のゆえに、「自民党を破壊してみせる」という前自民党総裁の公約を実現する羽目に追い込まれたという次第である。(後略)