大手スーパー、ダイエーが、迷走に告ぐ迷走の末、産業再生機構を使った再建路線を選択してから1カ月余り、再生機構が再生計画づくりを進める一方で、経済産業省が 後遺症 に悩まされている。
経産省はダイエー再建をめぐり「民間の力を借りた再生」を主張して再生機構の活用に徹底的に抵抗した。その結果は惨敗。かつての改革派官庁が「守旧派」の烙印を押されてしまった。
いま省の内外で「新4人組は責任をとるべきだ。少なくとも事務次官と経済産業政策局長の2人は」という声が強くなっている。
「新4人組」とは、民間再生路線を主導してきた4人の幹部を指す。事務方トップの杉山秀二次官、次の次官とされる北畑隆生・経済産業政策局長、流通業界を担当する迎陽一・商務流通審議官、石黒憲彦・大臣官房総務課長の4人だ。
前身の通産省だった1993年暮、次の次官とみられていた内藤正久氏が突然、熊谷弘通産相に解任された。そのとき怪文書が飛び交う陰湿な派閥抗争で暗躍した4人の幹部は「4人組」と呼ばれた。新4人組はそれにちなんだ命名である。
それにしても、経産省はなぜ再生機構の活用に激しく反対したのだろう。流通産業の監督官庁として経産省は、2001年にOBの雨貝二郎氏をダイエー会長に送り込んだ。さらに翌年、主力3行による5200億円の金融支援に基づいてダイエーが新3カ年計画を策定したとき、産業再生法を適用して支援した。このときの担当審議官が杉山現次官だ。
いま、金融庁の出先のような再生機構にダイエーの処理を任せたら、次官のメンツは丸つぶれだ。そういう思いに、経済政策の主導権を握られっぱなしの竹中平蔵・経済財政担当相への対抗意識も手伝って、高木邦夫ダイエー社長を一時軟禁までするという常軌を逸した行動に出たようだ。
2年前、不良債権問題の象徴だったダイエーは、破綻させれば金融システムが揺らぎかねない存在だった。しかしその後、株価の回復などで大手銀行は体力を回復し、ダイエーが引き金になって金融危機が発生する恐れはなくなった。ダイエーは規模こそ大きいものの、一個別企業の経営問題になったのだ。そうした大局的な判断が新4人組にはできなかった。
4人の考えに沿わない幹部たちは次第に重要な会議から排除され、入ってくる情報も偏ってくる。そんな4人に担がれた中川昭一経産相は、哀れなピエロだったともいえる。
この事件は、霞が関における経産省の地盤沈下にいっそう拍車をかけるだろう。
戦後の高度成長時代、通産省は当時の大蔵省と並んで「ニッポン株式会社の指令塔」だった。田中角栄氏が1971年に首相になったとき、政策の目玉である「日本列島改造論」を陰で立案したのは、通産相時代に秘書官を務めた小長啓一・元通産次官だった。彼は首相秘書官に転じて、田中政治を支える。
先進国に追いつけ追い越せという産業政策がそれなりに達成された70年代で、通産省の使命は終わっていたのかもしれない。それでも80年代は、自動車、半導体など経済摩擦の調整役という役割があった。
90年代になると、企業を後押しする産業政策を放棄したものの、成熟した経済社会にふさわしい政策は打ち出せなかった。規制緩和の旗を振り、エネルギーや中小企業、輸出入管理など個別分野での権限も失なう。
生き残りをかけて通産省は、霞が関の改革派を自認し、社会保障や労働、税制、情報通信など他省の問題に口を出していく。「アメーバ官庁」と揶揄されたものだ。(後略)