(前略)そもそも武富士が、最初に盗聴という違法行為に手を染めたのは、1992年の秋ごろだった。
当時、武富士は顧客情報の漏洩というやっかいな問題に直面し、その漏洩ルートを必死に探っていた。その過程で情報漏洩の黒幕ではないかと疑われたのが、当時すでに武富士を退社していた岡村誠・元専務だった。武富士を去った岡村氏はオーエムエフという金融会社を経営、同社は中小のサラ金業者に事業資金の融資を行う業務を行っており、その融資先のサラ金会社の中に、顧客情報の流出先と思われる業者が複数含まれていたのである。
武井被告はまず腹心の小滝国男・専務(当時、以下同)に、岡村氏の尾行を命じた。小滝氏の依頼を受けた探偵会社がそれを実行したが、岡村氏が情報漏洩の黒幕であるとの証拠をつかむまでには至らなかったという。
そんな折り、武井被告に「盗聴」を勧める人物が現れた。Zという政経誌のオーナーであるA社長である。ちなみにA社長は政界にも知己が多く、子息が警察OBの大物政治家の秘書を務めている。
そのA社長の紹介で知り合ったのが、探偵会社M社のB社長。武富士本社でB社長と面談した武井被告は、その場で盗聴を依頼したとされる。窓口役となったのは小滝氏。こうして岡村元専務に対する盗聴工作がスタートする。
実際に岡村宅に盗聴器を仕掛けたのは、B社の下請け業者で、山岡氏と高尾氏に対する盗聴事件で実行犯として逮捕・起訴されたアーク横浜探偵局だった。アーク代表の重村和男被告は元力士で、盗聴を得意とする業者として知られていた。
しかし盗聴した通話内容からも結局、岡村氏が情報漏洩に関わっているとの証拠を得ることはできなかった。しばらくして盗聴は打ち切られる。
が、禁断の手法に手を染めてしまった武井被告はその後も事あるごとに、盗聴という禁じ手を使うことになる。ターゲットとなったのは、社員や元社員。たとえば義弟で元専務のC氏や元支社長のD氏は武富士を退職後、個別にサラ金会社を立ち上げたが、その際、武富士から社員の引き抜こうとしていると疑われ、それが盗聴される理由になったといわれる。(後略)