『三菱帝国の神話』という表題の単行本がある。著者は今崎暁巳とあり、労働旬報社から刊行されている。三菱の“企業城下町”長崎市の三菱重工長崎造船所が舞台である。一九六四年(昭和三九年)の三菱重工復元合併以降の一〇年余におよぶ会社側の労組弾圧と、それと闘う労働者の生きざまが描かれている。表紙に小さな活字で、以下のように「刊行の狙い」が記されていた。
《三菱は国家なり−−治外法権のもとで絶対にまかりとおる三菱憲法−−“あなたの三菱、世界の三菱”原子力・航空機・戦車・ミサイルから飲料自動販売機にいたるまですべての生活に入りこむスリ−ダイヤ。その巨大独占企業の生産と組織をささえる網の目のようにはりめぐらされた職制機構・社員教育・管理体制の思想と行動とその実際……。四人に一人の管理者群と同盟重工労組が一体となってくりひろげる気の遠くなるようなピラミッド支配、その神話の崩れるときは………。》
目次を見ると「人間・職場破壊の一〇年」「三菱は分裂で何を狙ったのか」「憎悪と暴力の嵐を超えて」「三菱の底辺を支えた果てに」「三菱の暗黒支配が明るみに出る時」など、おどろおどろしい文字の羅列がある。遠望した長崎は、歴史に輝く観光都市で、ご当地ソングも多いが、「長崎はきょうも雨だった」などと気楽に歌ってすごせない労働者、市民が多数いたのである。
著者によると、当時の三菱社員の数は約一万五〇〇〇人、家族を含めて七万人。長崎市の人口四二万人の一七%ほどを占める。下請け企業や関連会社を含めると、なんらかの意味で、三菱の傘の下で暮らしている人の数は、市の人口の三分の一ほどにあたる。会社と社員の払う税金や、彼らが使う電力は市全体の二〇%前後を占め、長崎港経由の輸出は三菱製品オンリ−といっても過言ではない。
《長崎に占める三菱の位置は明らかである。だが、それ以上に大きく目に見えない力は、安政二年に徳川幕府鎔鉄所として始まって以来、百二十年にわたって、長崎と日本の歴史をつくり、三代、四代の人間の生活をつくりつづけてきた、日本一の巨大企業そのものの中にあるのだ。日清・日露、第一次・第二次大戦とつづいた戦争の中で、たえず襲ってくる好況不況の波の中で、いつも長崎と九州の人びとは、三菱長崎造船所の一挙手一投足とともに生きてきたといっても間違いない。国家とともに、日本の近代をつくってきたこの三菱の世界には、一つの治外法権あるいは三菱憲法といった力さえ存在し、私のような人間が自由に取材することもできない状況が生まれる。他の造船所では、こんなことはなかった》というのである。
(後略)