公明党・創価学会が動かせる票は多く見ても八百万前後、全国有権者の約八%に過ぎない。だが、創価学会名誉会長の池田大作はかつて公明党にこんな和歌を与えている。
「妙法の宝を胸に抱きしめて君等戦え天下取るまで」
思いは明らかに天下取りにある。
昨年十月の自民党との連立による政権与党入りは、その野望実現への現実的な第一歩だった。今回の総選挙での自民党との選挙協力は、その権力の階段をさらに昇るため。八%の有権者をバックに天下を取らんとする創価学会の野望は、果たして成るのか。
神崎武法は、旧公明党勢力が再結集した一九九八年一月、公明党代表の座に就くと「野党に軸足を置く」と言い切り、その後の国会運営でも野党色を演出し続けた。しかし、公明党の天下取りの戦略の第一歩が自民党との連立にあったのは、当時すでに政界関係者の誰もが知っていた。というより、公明党は三五年前の立党以来、その機が熟すのを、創価学会とともに辛抱強くずっと待ち続けていたというのが正しい。
九七年六月、新大阪駅のVIPルームで神崎と元首相の竹下登が二人だけになった。ともに元公明党幹部の葬儀に出席しての帰り。竹下はこう語りかけた。
「公明党グループは新進党から独立した方がいい。地方政界は自公の時代になっている。中央政界もそうすべきだ」
神崎は「よく分かっている」という意味を込めて大きく頷いた。当時、公明党はいったん解党して新進党に合流していた。だが、内部対立の激しい新進党の前途は暗かった。創価学会にすれば天下を取れない新進党は「そろそろ見切り時」であり、竹下の呼びかけはそうした認識を背景にしていた。別の言い方をすれば、公明党と旧小渕派による政界支配に向けて「そろそろ機が熟してきた」という示唆でもあった。
自民党は九三年の小沢一郎グループの離党後、政権の座から追われ、翌年になって社民、さきがけ両党と連立を組んでやっと政権に復帰した。ただ衆参ともに過半数割れとなり、九六年三月、橋本龍太郎が総裁の座についたものの、橋本にも、竹下ら旧小渕派にも、理念・政策が大きく違う社民党との連立は「なにかと不自由」だったのだ。
(以下、略)