絵に描いたような棚ぼたで首相の座が転がり込み、笑みが隠しきれなかった森喜朗。だが、それもつかの間。小渕後継政局を牛耳って幹事長に昇格した野中広務ら小渕派が完全に政権中枢を握り、自分では身動きできない状況に置かれたことを、森は実感しなければならなかった。
野中主導の公明党路線や、小渕派の守旧体質に便乗している限り、いつまで経っても操り人形で、国民人気が沸くわけもない。下手をすれば短期でお祓い箱になる可能性もある。かくして「野中の桎梏」を早く抜け出したい森とその周辺は、新政権のスタートとともに野中ら小渕派に暗闘を挑む運命となった。
「いくら居抜きの政権継承でも女房役だけは代えるのが普通」(自民党幹部)と誰もが指摘する官房長官の青木幹雄も代えず、副長官の額賀福志郎まで留任させたのは、森が野中の要求に逆らわなかったからである。ただ、森が野中の圧力に負けたとは単純にはいえない。森には独自の計算もあった。
小渕恵三が入院し再起不能であることが判明した翌日の四月二日に赤坂プリンスホテルで開かれた五者協議(森、野中、青木、亀井静香、村上正邦)では、後継を森にする条件として官房長官や副長官の留任の話まではなかった。官邸の実務をとりしきり、首相をガードする役目の官邸人事まで強要するのは、いくら野中や亀井らでも非常識だからだ。
ところが森は、その後、野中が青木の留任を求めると、それを受けて自ら青木を口説いた。周辺によれば、「小渕の弔い選挙という名目なら衆院戦に勝てる。それには青木も留任させた方がいい」と判断したからだ。
森は「青木は早稲田雄弁会で同じ釜のメシを食った仲。派閥の枠を超えて、小渕を支えたのと同じように自分にも尽くしてくれる」(周辺)と思い込んだ。つまり、青木が野中らの圧力を撥ね返す盾になってくれると、期待したのだ。
しかし、それは誤算だった。政調会長の亀井と組んだ野中は、国対委員長の古賀誠や総務局長の鈴木宗男らを使い、縦横無尽に走り始めた。青木はそれを止めようともしない。